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盛岡地方裁判所 昭和37年(レ)15号 判決

控訴人 天瀬末蔵

被控訴人 国

訴訟代理人 青木康 外二名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は、控訴人の負担とする。

事  実 〈省略〉

理由

一、被控訴人主張の請求原因一の事実は、控訴人の認めるところである。

ところで被控訴人は、本件土地が本件演習林の一部である旨主張し、控訴人は、二五番の五の一部である旨争うので判断する。

まず、成立に争いのない甲第一号証の一、二、原審証人山寺久夫の証言(第二回)を総合すれば、本件演習林は、もと農商務省の所管であつたが、岩大の前身である盛岡高農は、明治三八年一二月一二日、農商務省から、所轄替により、その保管転換を受け、次いで、岩大は、昭和二四年五月三一日盛岡高農から、所属替を受け、被控訴人において、右明治三八年一二月一二日から、学校演習林として、管理、経営して来たことが認められ、他に右認定をくつがえすに足りる証拠はない。

また、原審(第一、二回)及び当審における検証、当審における鑑定人高瀬勝蔵の鑑定の各結果を総合すれば、本件土地は、その南側を、ほぼ東西に屈折して流れる巾員約三メートルの天川により、画され、その北側を右天川にほぼ平行して、直線をなす産状ののり脚の線、すなわち、別紙図面表示a・b各点を直線で結ぶ線により、画されている東西に細長く概して、平担な峡状の地域であること、本件土地の南側境界をなしている右天川は、南側前端部で、のり脚の巾員三ないし五メートルの崖状をなす本件演習林丘陵部に接続しており、本件土地の北側境界は、二五番の五に接続しているが、右南側の天川及び北側の崖状ののり脚線は、いずれも、一応、自然的な境界線とみられること、しかして、本件土地の北東端崖状の尖端部(右a点)に、相当の年月を経た九一二号石標があるが、同石標は、一〇センチメートル四方の花崗岩の角柱で、本件土地側側面に「界912」、反対側側面に「山」と刻されたもので、その頭部にV字が刻され、その西側の一辺は、本件土地の北側の崖状ののり脚線(右a、b各点を直線で結ぶ線)を指向し、その東側の一辺は、別紙図面表示a、kの各点を直線で結ぶ線を指向し、それぞれ、これらとほぼ一致し、その方位角上の差は、僅か一度にすぎないこと、本件土地内には、右石標の外には、界標といえるものが存在しないことが認められ、他に右認定をくつがえすに足りる証拠はない。

しかして、成立に争いのない甲第二、第一六、第一七号証、原本の存在及び成立に争いのない乙第九号証の八、九、郵便官署作成部分の成立に争いがなく、その余の部分については、当審証人高瀬勝蔵の証言により、真正に成立したと認められる甲第二八号証の一、同証言により、真正に成立したと認められる甲第二八号証の二、原審証人坂本源蔵、同高瀬敬文、当審証人高瀬勝蔵の各証言を総合すれば、営林署における測量内規(明治三二年制定の国有財産法施行規則第八七条)、によれば、明治年間から、国有地の境界については、境界石標側面のうち、石標番号ないし「界」の字が刻された側面の面する側が国有地であり、「山」の字が刻された側面の面する側が民有地であり、また、右石標上のV字は、国有地境界の方向線を指示する取扱が行われて来たこと、しかして、国は、明治三五年八月一五日、訴外御明神村に対し、二五番の五を含む旧々二五番の五など山林合計五、三〇七町余を払い下げた際、岩手営林署の前身である岩手大林区署において、関係当事者立会の上、国有地と民有地との境界を確定し、その標識として、右測量内規に基づき、石標を設置したが、九一二号石標も、右石標のうちの一であること、従来、右各石標については、他から、何らの異議も述べられなかつたことが認められ、さらに、前示甲第二号証、成立に争いのない甲第一〇、第一二ないし第一五、第一八号証、原審証人佐藤長兵衛、同田中徳十郎(第一回)、同山寺久夫(第二回)の各証言、原審(第一回)及び当審における検証、当審における鑑定人高瀬勝蔵の鑑定の各結果を総合すれば、九一二号石標は、右設置以後、その位置に変更がないこと、盛岡高農が本件演習林について、作成した明治四一年八月付(甲第二号証)、大正二年一〇月付(甲第一〇号証)、大正一三年一一月付(甲第一二号証)、昭和一〇年二月付(甲第一四号証)、昭和一二年三月三一日付(甲第一五号証)、作成年月日不明(甲第一三号証)の各図面、岩大が本件演習林について、作成した本件演習林天川沢境界図(甲第一八号証)に照合すると、右各図面上の九一二号石標から西方の境界線は、いずれも、ほぼ同角度で西南方を指示する直線で表示されており、しかも、九一二号石標のV字の方向線ともほぼ一致していることが認められ、他に右各認定をくつがえすに足りる証拠はない。

さらに、すでに判示したところと前示甲第二、第一〇、第一二ないし第一五、第一八号証、成立に争いのない甲第三号証の一、二、甲第一一、第一九ないし第二六号証、原審証人武藤益蔵、同佐藤長兵衛、同古舘長太郎、同南野栄助、同山寺久夫(第一、二回)の各証言、原審(第一、二回)及び当審における検証の結果を総合すれば、明治三八年一二月一二日から、盛岡高農、次いで、岩大において、本件土地を本件演習林の一部として管理し、学生の林学実習として、測量などをし、また、人夫をして、杉、ドイツトウヒなどの植栽伐採、間伐、林相の整理、下草の刈払などをさせて、使用して来たが、他から、何らの異議も述べられなかつたこと、また、盛岡高農において、大正一二年頃、本件土地上に本件立木を植栽し、次いで、昭和一四年頃、本件土地の北西側の境界線(別紙図面表示a、b各点を直線で結ぶ線)上にドイツトウヒを植栽し、右境界を明らかにしたことが認められ、右認定に反する原審証人天瀬安蔵、同天瀬エシ、同藤原久次郎、同田中徳十郎(第一、二回)、同木村茂の各証言は、前記各証拠に対比して、たやすく、信用できず、他に右認定をくつがえすに足りる証拠はない。

なお、成立に争いのない乙第七号証、原審(第一、二回)及び当審における検証の結果を総合すれば、本件演習林と二五番の五との本件境界の形状、位置は、明治三二年一二月、作成された官林測量図における旧々二五番の五の南側境界線の形状、位置とほぼ符合することが認められ、他に右認定をくつがえすに足りる証拠はない。

以上認定の各事実を総合すれば、本件演習林と二五番の五との本件境界線は、右a、bの各点を直線で結ぶ線であり、本件土地は、本件演習林の一部であると認定するのが相当である。

もつとも、前示甲第二号証(本件演習林についての明治四一年八月付基本図)によれば、本件演習林と二五番の五及びその他の民有地との境界が天川であるように表示されているが、他面、同号証によつても、右境界は、前述のような石標を順次直線で結ぶ線であつて、天川を境界とするものではなく。しかも、前示甲第一三ないし第一五号証、原審(第一、二回)及び当審における検証の結果によつても、明らかなように、右甲第二号証における天川の表示は、正確なものではなく、むしろ、誤つているものであるから、同号証をもつて、本件境界についての的確な資料ということができない。

また、成立に争いのない乙第一号証の二(雫石町備付の土地台帳付属地図写)、乙第二号証の三(土地分割届添付図面写)、甲第九号証(土地分割実測図)によれば、本件土地及び付近土地の境界は、いずれも、天川をもつて表示されているが、まず、乙第二号証の三、甲第九号証については、成立に争いのない乙第二号証の一、二により、明らかなように、いずれも旧々二五番の五の共有分割にともなつて、盛岡税務署長宛に提出された大正一一年一二月一二日付土地分割届の添付図面として、その頃、作成されたものであるところ、右は、いずれも、天川流域の境界について、当時、すでに設置されていた前示九一二号、九一四号各石標の存在を脱漏して、その表示を欠き、しかも、成立に争いのない乙第二号証の二によると、右土地分割の結果、右土地の実側面積は、一町九反一畝九歩の増歩を示しており、次に、乙第一号証の二については、すでに判示したところと前示乙第二号証の二、三、甲第九号証により、明らかなように、旧々二五番の五についての大正一一年一二月一二日付土地分割後に、したがつて、右乙第二号証の三、甲第九号証の作成後に作成されたことが推認されるところ、これにも、当時すでに設置されていた前示九一二号、九一四号各石標を脱漏して、その表示を欠くから、右乙第一号証の二、乙第二号証の三、甲第九号証をもつて、本件境界についての的確な資料ということができない。

さらに、前示乙第二号証の一ないし三、成立に争いのない乙第六号証を総合すれば、旧々二五番の五についての前示大正一一年一二月一二日付土地分割届が、当時、盛岡税務署に受理され、これに基づいて、大正一一年一二月一八日、地価が設定されたことが認められ、また、原審証人天瀬安蔵、同天瀬エシ、同藤原久次郎、同田中徳十郎(第一回)の各証言を総合すれば、昭和初頭以来、控訴人の父天瀬栄作、次いで、控訴人が本件土地において、草刈などをしたことが認められ、次いで、成立に争いのない甲第二七、第二八号証、乙第一〇号証、原審証人天瀬安蔵、同田中徳十郎(第二回)の各証言、原審における控訴本人尋問の結果を総合すれば、政府は、昭和二三年一二月二日旧自創法第四〇条の二により、当時旧二五番の五の登記簿上の所有名義人であつた天瀬義時から、これを買収した上、これを二五番の五外一筆の二筆に分筆し、同法第四一条により、天瀬栄作に対し、二五番の五を売り渡したが、その際、二五番の五の南側境界を天川としたことが認められ、加うるに、当審における鑑定人高瀬勝蔵の鑑定の結果によれば、本件演習林と民有地との境界に設置された石標(九〇七、九一〇、九一二、九一四、九一八号)上に刻された方向線の方位角が実際の右境界の方位角に照合すれば、一ないし二四・九度の格差のあることが認められるけれども、右各事実をもつてしても、右に認定したところをくつがえすに足りるものとは思料されず、他に右認定を左右できる証拠はない。

二、そこで、控訴人の抗弁(一)、(二)について、判断するのに、すでに判示したとおり、本件演習林は、本件土地を含め、明治三八年一二月一二日から、盛岡高農、次いで、岩大において、学生の林学実習の場所として、使用管理されて来たものであるから、直接に、国の用に供される公物(公用物)であるというべきである。しかして、右のように、国の用に供されるべき物については、その公用を廃止しない限りは、時効取得の目的となることができないと解するのが相当であるところ、本件土地について、その公用を廃止したことを窺知できるような事実の主張、立証のない本件においては、本件土地は、結局、時効取得の目的となることができないものといわなければならない。したがつて、本件土地が時効取得の目的となることを前提とする控訴人の右各抗弁は、理由がない。

三、次に、被控訴人主張の請求原因三の事実は、控訴人の認めるところである。

しかして、すでに判示したところによれば、控訴人の本件立木の伐採行為は、故意又は過失によるものというべきであるから、控訴人は、右不法行為により、被控訴人に生じた損害を賠償する義務がある。

なお、控訴人は、天瀬栄作が本件立木を植栽した旨主張するが、すでに判示したとおり、本件立木は、被控訴人側において、大正一二年頃、植栽したものである。

そして、成立に争いのない甲第六号証、原審証人山寺久夫の証言(第一、二回)を総合すれば、本件立木のうち、杉五四本(四四、八五九石)の伐採がなされた昭和三二年九月二五日当時における価格が一石当り金一、〇二二円、合計金四五、八四五円八九銭であり、赤松一本(〇・九八石)の伐採がなされた右同日当時における価格が一石当り金七五六円、合計七四〇円八八銭であることが認められ、他に右認定をくつがえすに足りる証拠はない。したがつて、被控訴人は、本件不法行為により、本件立木の伐採当時における右価格総計金四六、五八六円七七銭と同額の損害を受けたというべきである。

四、してみれば、被控訴人の本訴請求は、控訴人に対し、本件土地が被控訴人の所有であることの確認を求め、かつ、右損害金四六、五八六円七七銭及びこれに対する本件不法行為の後であつて、被控訴人の請求にかかる昭和三二年一〇月一日から、完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損金の支払を求める限度においてのみ、正当として、認容されるべきであるが、その余は、失当として、棄却されるべきである。したがつて、原判決が本件損害賠償の請求について、円以下の端数を切り捨て、金四六、五八六円及びこれに対する本件不法行為の後である昭和三二年一〇月一日から完済まで年五分の遅延損害金の支払を求める部分を認容し、その余の部分を棄却したのは、不当であるけれども、本件は、控訴人のみの控訴にかかり、被控訴人の独立控訴又は附帯控訴がないから、右請求について、原判決を変更することができないので、単に控訴棄却の判決をすべきであり、その余の請求について、原判決は、相当であるから、結局、本件控訴は、民事訴訟法第三八四条により、棄却されるべきである。

よつて、当審における訴訟費用の負担について、同法第九五条、第八九条を適用して、主文のとおり、判決する。

(裁判官 工藤健作 佐藤栄一 玉川敏夫)

図面〈省略〉

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